七ツ寺共同スタジオ35周年記念企画『今日は私の誕生日』/双身機関 [演劇/レビュー]
七ツ寺共同スタジオ35周年記念企画の3ケ月連続上演・第2弾が開催された。名古屋を拠点に活動する双身機関による『今日は私の誕生日』。この作品は、ポーランドの画家で彫刻家・演出家でもあるタデウシュ・カントルによるテキストを双身機関の寂光根隅的父が演出したものだ。カントル未完の作品をどう立ちあがらせるのか。舞台美術に現代美術家の水谷イズル、音楽に新田誠(Triangle 2nd)を迎えての、刺激的な挑戦は幕を開けた。
日時:2008年2月14日(木)~2月18日(月)
場所:七ツ寺共同スタジオ
出演:松本信一(双身機関)、石原愛子、 猪塚好章、みすず、佐伯知佳子、三浦桃子、小林なつみ、前田達男、上田智也、古川遠(花嵐)
<断片的なイマジネーションのコラージュ>
カントルのテキストは、戯曲というにはあまりに難解である…いや、乱暴な言い方をすれば戯曲として成立してはいないかも知れない。言葉の断片が紙の上には記されているばかりで、それは上演されることを拒んでいるかのようでもある。画家で彫刻家という顔を持つカントルは、舞台上で役者を使って空間造形を創造しようとしていたのではないだろうか。戯曲という作品設計図をもとに、カントルは生身のニンゲンによるインスタレーションを創出したかったのではあるまいか。
今回の双身機関による『今日は私の誕生日』は、演劇ではない(無論、これは否定的な意味での言葉ではないことを明示しておく)。舞踏といってもよいが、これはカントルの設計図からほとばしるイマジネーションを、寂光根隅的父が役者に降臨させたものだといえる。断片的なイマジネーションをドラマテッィックな音楽のラインにのせてコラージュしたインスタレーションなのだと。
<受け入れられない夥しい死の気配と、狂気に満ちた現代をつなぐもの>
ナチによるユダヤ人の虐殺は、歴史上最悪の狂気として誰もが知っている事実であるが、その狂気性を理解できる者はおそらくいない(当事者は殺されてしまったのだから)。殊に、何の罪もなくただ殺戮の影におびえながら生きるということなど、この平和ボケの日本において実感などできるはずもないだろう。ユダヤ人として生きたカントルの背後には、こうした死の影がベッタリとつきまとっている。舞台上に立つ役者たちの死化粧を施したような顔や、病的にひきつった腕や足の動きは、劇空間に“この世”と“あの世”の境界線を生成する。ほんのひと押しで、死の世界へと転落していきそうな不穏な気配を孕みつつ。
正気でいられなくなった人物たち(…人ではないのかも知れない)が整列し、医師の診断を仰ぐシーンが中盤にある。淡々と患者を診断し、最悪の病状をサラサラと話し、病名を告げる。まるきり患者を見ずに診断を続ける医師の前で、病状を告げられた患者たちは喜んだり、逆に苦痛にのたうち回ったり、奇妙な笑い声をあげる。カントルの感じていた死の代替として、ここに現代的な狂気が浮かび上がりはしないだろうか。病んでいく現実を前に、 食い止めることも変えていくことも、その方策さえも見出せないでいる現代の私たちの姿は狂気じみている。もしかしたら、夥しい死に匹敵するほど残虐に…。
<空間を斬りさく身体が実現するもの>
果敢にカントルに挑んだ双身機関。彼らが難解なテキストの世界を表現しようとした基盤に、強靭な身体を備えたのは正解だろう。非日常的なほどに鍛えられた身体が空間を斬りさき、倒れては起き上がるとき、そこには成立を拒む戯曲がようやく警戒心を解きはじめるように思える。セリフを最小限にとどめ、テキストの中に沈んだ言葉の数々を身体が内包するとき、そこにはカントルにつながる細い糸が見えはじめるのだ。極度に湛えられた緊迫感が、死を予感する人々の底知れぬ不安にリンクするのかも知れない。
ラストシーンのキャンドルをつけては消す演出は、死者への追悼を思わせる。はかなく消える炎には、明日をも知らぬ命のもろさを覚え、消されてもまた灯される炎には諦めきれない死者への想いの深さがうかがえるからだ。もしかすると、寂光根隅的父は現実の世界にあっても、死者とともに過ごす時間の中に生きているのではないだろうか。忘れ去られる人々への深い哀惜の念が、どの演出作品からも漂ってくるような気がしてならない。悼む想いが、作品の底流にあるのではないだろうか。
<ショパンへ>
今回の作品の音楽を担当した新田誠は、作曲にあたりすべての曲に対してショパンをベースに曲を起こしていったという。ポーランドという国で生きたカントルと、ワルシャワ蜂起に突き動かされて『革命のエチュード』を作曲したショパンが、この作品の中で交差し、断片的なコラージュを作品として成立させていたように思えた。
難解なテキストに挑んだ双身機関。その挑戦への評価は、やがて時代が答えを出すだろう。挑まなければ、何も得られはしないのだから。
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最近「日本の文学作品」が気になるんです。でも、あの、ホラ、好みが何と言うか偏っているので、うーん・・・。 と、何だかイラッとする書き出しですが(笑)、私が好きな日本文学って例えば内田百閒とか泉鏡花とか小泉八雲とかなんですけど、どれも非現実的。文字を読み進めていくあいだに、どこか不思議な別…[続く]








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